幕末の悲しい歴史『残念さん』と桜

海まで5分!

『残念さん』とは?

Wakamaro
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広島から山陽自動車道で岩国方面に向かい、宮島SAを越えた先の「大野IC」と「大竹IC」の間を走っているとき、宮浜温泉の看板とともに「残念さん」と書かれた看板を見たことがあるでしょうか?

「残念さん」の看板

一瞬のことなので、「あれ?何?」と思っただけで忘れてしまう人も多いでしょう。実はこの看板は「悲しい歴史」と関係があって、昔はそれなりに多くの人が訪れた場所だったようです。

今では訪れる人も少なくなった廿日市の「残念さん」ですが、それに関係する「知られざる桜の木」とともに記事にします。

「残念さん」は、Google Mapでは、「残念社」と表示されています。JR山陽本線の大野浦駅から徒歩45分ぐらいかかります(地図参照)

JR山陽本線「大野浦駅」
Wakamaro
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以下は「残念さん」に関する「はつかいち観光協会」の記述です。

「残念さん」は実は、「残念社」とも呼ばれる祠なのですが、その由来は、なんとあの幕末。

幕末と言うと、坂本龍馬や西郷隆盛の名前がすぐに頭に浮かぶかもしれません。この二人が関わった薩摩藩と長州藩の薩長同盟は、倒幕派として時の幕府と戦うことになりますが、その幕末の歴史の中で、なんとここ、廿日市・大野が戦場となった戦いがあったのです。

長州藩が天皇を中心とし外国を打ち払う尊皇攘夷を掲げたことから、江戸幕府は長州征討を敢行。元治元年と慶応2年の2度に渡り起こったこの戦争の中で、廿日市大野の滝の下付近と四十八坂は激戦地となり、何度も激戦が繰り返されました。

1866(慶応2年)7月9日の長州戦争のさなか、東西の攻防の大決戦場となっていた大野・四十八坂一帯。宮津藩士・依田伴蔵は、幕府軍から和平について伝えるべく、ひとりで長州陣営に向かっていました。

ところが和睦の使いとはわからなかった長州の隊士に敵として狙撃され、和平の文を渡せないまま「残念・・・!」と言い残して息をひきとってしまったのだそう。その後、和平を伝えるという大きな任務をはたせず亡くなったこの武士を悼み、土地の人は「残念社」として祠をたてたのだそう。

この他にも、大頭神社の入り口には、長州討伐の戦いで命を落とした人々をまつった千人塚など、幕末に関わりのある史跡があり、多くの逸話が残っています。宮島の対岸が幕末動乱の戦いの舞台であったことはあまり知られていないかもしれませんが、宮島とはまた違う幕末の歴史を紐解きながら、ぜひ散策してみてくださいね。

西国街道をたどりながらの散策は、小さな山登り気分。展望も素晴らしいのでおすすめですよ。
🔗残念社 – 一般社団法人はつかいち観光協会

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私も実際にこの「残念社」に行ってみました。廿日市市にある「宮浜温泉」から経小屋山に向かって山道(旧西国街道)を登った所にあります。依田伴蔵はこの場所で亡くなったと思われます。

残念さん(残念社)

以前は(戦前は)7月9日の命日になると依田の故郷京都から船を仕立てて参拝客が訪れたようで、露店も出て芝居小屋までかけられた、ということです。

近くには同じく依田を祀った「依田神社」と、有名な吉田松陰が江戸に護送される際に腰を下ろしたとされる古蹟「腰掛けの岩」もあります。
🔗広島ニュース 食べタインジャー「依田神社(よだじんじゃ)廿日市市」

依田神社の鳥居と腰掛けの岩
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しかし、今では訪れる人も少なくなってしまっているようです。

知られざる桜の木

実は上に書かれた悲しい歴史に関連して、さらにほとんど知られていないと思われることを発見しました。廿日市市の記事などでも見たことがありません。

それは依田伴蔵のお墓です。

おそらく伴蔵の死を悼んだ地元の人が建てたと思われるお墓が、残念社から離れた海沿い(JR山陽本線の踏切横)にあったのです。

そしてお墓の横には桜の木が植えられていて、毎年春になると綺麗な花を咲かせています。

知られざる依田伴蔵の桜

広島湾に面した海沿いに咲くこの立派な桜の木について、私は以前から綺麗な桜の木だな、と気になっていました。そして2022年の春に桜の写真を撮ったとき、お墓と、墓石に「宮津藩士 依田伴蔵の墓」と書いてあることに気づいたのです。

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この桜と、桜の木から残念さんまでの道のりを動画にしてYouTubeにアップしましたので、記事の最後にそれぞれ紹介しておきます。

🔗YouTube:海そのiチャンネル

依田伴蔵の桜

桜の木から残念さんまでの道のり

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